はじめに:年間売上5兆円市場の裏側にある「逆転劇」
オゼンピック、ウゴービ、マンジャロ…これらの名前を聞いたことがある方も多いでしょう。GLP-1受容体作動薬と呼ばれるこれらの薬剤は、糖尿病治療薬として開発されながら、その劇的な体重減少効果により「痩せ薬」として世界的なブームを巻き起こしています。
現在、この市場を牽引しているのはデンマークのノボノルディスク社です。同社の時価総額は一時、デンマークのGDPを上回るほどに成長しました。しかし、実はこの分野で最初に重要な特許を取得していたのは、アメリカのイーライリリー社だったのです。
なぜ先行者が後追いに回ったのか?
この逆転劇の背景には、特許戦略における重要な教訓が隠されています。
1996年の「運命の1週間」- わずか7日の差が生んだ明暗
物語は1996年11月に始まります。
イーライリリー社は1996年11月5日、GLP-1の体重減少効果を発見し、肥満治療に関する用途特許を出願しました。一方、ノボノルディスク社も同様の発見をし、わずか1週間遅れの11月12日に特許出願を行いました。
このたった7日の差が、後の市場競争に決定的な影響を与えることになります。
先願主義の下、イーライリリー社は米国特許6583111号を含む、GLP-1受容体作動薬を使った肥満治療に関する広範な用途特許の取得に成功しました。一方、ノボノルディスク社は米国では拒絶され、この分野での広い特許権取得に失敗したのです。
致命的な判断ミス:「肥満は疾患ではない」
ここで運命を分けたのが、両社の「疾患観」の違いでした。
イーライリリー社は当時、「肥満を疾患として見ておらず」、せっかく取得した市場独占権を活用することなく、2003年頃から肥満症治療薬の研究を完全に停止してしまいます。
一方、ノボノルディスク社は異なる道を選びました。特許で直接的に保護されない領域で着実に研究を進め、脂肪酸修飾という独自のアプローチでリラグルチド(2010年)、セマグルチド(オゼンピック/2017年)を開発したのです。
ノボノルディスクの巧妙な市場戦略
ノボノルディスク社の戦略は技術開発だけにとどまりませんでした。
段階的な市場形成
- 2014年 – リラグルチド(Saxenda)で肥満症治療薬として初承認
- 2021年 – セマグルチド(Wegovy)で更なる効果向上を実現
- 適応外処方の活用 – 糖尿病治療薬オゼンピックのコマーシャルで体重減少効果を前面に押し出し
特に注目すべきは、オゼンピックの「適応外処方ブーム」を結果的に活用した形となった点です。糖尿病治療薬として承認されたオゼンピックですが、そのコマーシャルでは体重減少効果を全面に打ち出し、インフルエンサーの影響も相まって、適応外での使用が社会現象となりました。糖尿病治療薬として承認されたオゼンピックですが、そのコマーシャルでは体重減少効果を全面に打ち出し、インフルエンサーの影響も相まって、適応外での使用が社会現象となりました。
この戦略により、ノボノルディスク社は肥満治療薬市場そのものを創造し、同時に制圧することに成功したのです。
イーライリリーの「復活戦略」
しかし、イーライリリー社も手をこまねいていたわけではありません。
同社はチルゼパチド(マンジャロ/ゼップバウンド)で反撃を開始しました。この薬剤は、GLP-1とGIPの二重受容体作動薬として、既存のGLP-1単独薬を上回る効果を実現しています。
興味深いことに、チルゼパチドの脂肪酸修飾は、ノボノルディスクのセマグルチドとほぼ同じ位置・同じスペーサーを使用しています。これは、ノボノルディスク社の脂肪酸修飾特許の一部が消滅したタイミングと、ハイブリッド骨格採用により既存特許を回避できた技術的成果の組み合わせによるものです。
特許戦略への5つの教訓
1. 特許は「取得」ではなく「活用」が目的
イーライリリー社のように、どんなに優秀な特許でも使わなければ意味がありません。特許は競合他社を排除する「剣」として使ってこそ価値を発揮します。
2. 市場の「疾患観」を見極める
当時の「肥満は自己責任」という社会認識が、イーライリリー社の判断を鈍らせました。技術的可能性だけでなく、社会受容性の変化を予測することが重要です。
3. 特許満了は「終わり」ではなく「始まり」
ノボノルディスク社は17年間の特許期間を「待機期間」として有効活用し、満了と同時に市場参入を果たしました。
4. 回避戦略こそが真の技術力
直接的な特許侵害を避けながら、同等以上の効果を実現する技術開発力が競争優位の源泉となります。
5. 特許と事業戦略の一体化
技術開発、特許戦略、マーケティング戦略を一体的に進めることで、市場での優位性を確立できます。
おわりに:特許戦略は「多次元の戦略ゲーム」
GLP-1受容体作動薬の競争は、単なる技術競争ではありません。特許戦略、市場理解、社会情勢の読み、そして長期的視野を組み合わせた「多次元の戦略ゲーム」なのです。
現在、この市場は年間売上5兆円規模に成長し、今後さらなる拡大が予想されています。しかし、勝者が決まったわけではありません。両社の特許が順次満了を迎える2030年代に向けて、新たな競争が始まろうとしています。
特許を取得する際は、ぜひこの事例を思い出してください。「取った特許をどう活用するか」こそが、真の競争優位性を生む鍵なのです。
弁理士 木羽邦敏
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