1,700億ドルのパテントクリフとバイオスタートアップにとっての「売り手市場」

1. 製薬業界に迫る「特許の崖」

2026年、世界の製薬業界は過去最大級の「パテントクリフ(Patent Cliff)」に直面している。主力製品の特許が相次いで満了し、巨額の売上が一気に失われる現象だ。CNBCは直近で特許切れリスクにさらされる売上規模を約1,700億ドルと報じているが、対象期間を広げれば影響はさらに大きく、今後数年間で失われると予測される年間売上高は約2,300億ドル、2033年までの累計では4,000億ドルを超える。

本稿では、このパテントクリフがなぜバイオスタートアップにとっての「チャンス」なのかを解説し、その機会を最大化するための知財戦略を実務的に整理する。

2. パテントクリフの全体像

目次

何が、いつ、どれだけ失われるのか

主要ブロックバスター薬の特許満了スケジュール

Keytruda(ペムブロリズマブ、Merck)
年間売上:約295億ドル(2024年)|米国物質特許満了:2028年12月
単一製品としては製薬史上最大の売上リスク。2026年にピーク売上(推定327億ドル)。

Eliquis(アピキサバン、BMS/Pfizer)
年間売上:約130億ドル|基本特許満了:2026年11月
2028年4月からジェネリックの本格参入見込み。FDAはすでに複数のジェネリックを承認済み。

Opdivo(ニボルマブ、BMS)
年間売上:約90億ドル|米国特許満了:2028年
BMSはEliquis・Opdivo合算で総売上の約45%を失うリスクに直面。

Trulicity(デュラグルチド、Eli Lilly)
年間売上:約50億ドル|物質特許・データ保護期間終了:2027年

Ibrance(パルボシクリブ、Pfizer)
年間売上:約54億ドル(2021年ピーク時)|特許満了:2027年
Pfizerは年間170–180億ドルの売上減を見込む。

BMSは「大手製薬の中で最大の成長ギャップ」を抱えるとアナリストに指摘され、将来リスク総額は約380億ドルに達する。しかしこれはBMSに限った話ではない。上位25社の製薬企業が合計約1.3兆ドルの買収資金を確保しており(Goldman Sachs分析)、業界全体が外部からの技術獲得を「経営上の必須課題」と位置づけている。

3. なぜスタートアップにとってチャンスなのか

2025年のバイオファーマM&A市場は記録的な活況を呈した。Johnson & JohnsonによるIntra-Cellular Therapies買収(146億ドル)、NovartisのAvidity Biosciences買収(120億ドル)、MerckのCidara Therapeutics買収(約92億ドル)など、大型案件が相次いだ。第4四半期のマイルストーン支払い平均額は前年比255%増加している。

こうした動向がスタートアップにとってのチャンスとなる理由は、3つの構造的な力学に集約される。

STEP
買い手の切迫感がプレミアムを押し上げる

大手製薬は「買わなければならない」切迫した状況にある。複数社が同じ治療領域でターゲットを探す結果、入札競争が発生し、通常であれば控えめに評価されるPhase 1–2段階のアセットにも高いバリュエーションがつきやすい。

STEP
プラットフォーム技術の知財が巨額の価値を持つ

個別化合物ではなく、複数の治療候補を生み出せるプラットフォーム技術への関心が高まっている。NovartisがAvidityの抗体オリゴヌクレオチド複合体(AOC)プラットフォームに120億ドルを投じた背景には、リンカー化学・コンジュゲーション方法・配列モチーフ・送達メカニズムにわたる多層的な知財ポートフォリオがある。同様に、mRNA医薬品においてArbutusの脂質ナノ粒子(LNP)特許が持つ戦略的価値が改めて認識されている。

STEP
知財ポートフォリオの質が買収額を左右する

デューデリジェンスにおいて、知財は最も精査される項目の一つだ。技術的に優れていても知財に瑕疵があれば買収額は大幅にディスカウントされる。では、高く評価されるポートフォリオとは何か。次のセクションで整理する。

4. 高く評価される知財ポートフォリオの条件

M&Aにおいてスタートアップの企業価値を最大化する知財ポートフォリオとは何か。デューデリジェンスで買い手が評価するポイント、不備があった場合のリスク、そして今から取るべきアクションをあわせて整理する。

(1) クレームの広さ

2023年の米国最高裁Amgen v. Sanofi判決以降、機能的クレーム(functional claim)や広範な属クレームは実施可能要件(enablement)の厳格な審査/無効審判のリスクにさらされる。中国においても従来から限定される傾向にある。とはいえ、日本やEUでは依然としてこれらの広範なクレームによる権利保護が可能であり、機能的クレームにより特定疾患に対して特定の標的たんぱく/遺伝子等を用いた治療(薬)の独占権を確保することができる。理想的なポートフォリオは、各国に応じた広いクレームと狭いクレームの両方を含む多層構造になっていることが好ましい。

リスク:enablement不足の広いクレームしか持たない場合、デューデリジェンスで「無効化リスクが高い」と評価され、ポートフォリオ全体の価値が毀損する。

アクション:各国の審査基準の違いを踏まえ、広いクレームと狭いクレームの多層構造を設計する。特に米国ではAmgen判決後のenablement基準を意識し、十分な実施例で裏付けられた適切なクレーム範囲を確保する。

(2) FTO(自由実施確認)の徹底

スタートアップの製品が第三者の特許を侵害していないことの確認(FTO調査)は、デューデリジェンスの最重要部分である。特にBayer/MonsantoのmRNA特許訴訟に見られるように、技術分野を超えた特許リスクが顕在化しており、自社の技術分野だけでなく隣接分野も含めた調査が求められる。ただし、スタートアップの初期段階とDC選定(フェーズ1直前)の段階で同程度の調査を行う必要はなく、段階的に精度を高めればよい。

リスク:フェーズ1以降に第三者の特許を侵害していることが発覚した場合、回避設計は不能となるためライセンスイン、無効化などの選択肢はあるがコストと実施の予測不能性などのリスクが高まる。そのためFTOの対象範囲が狭い場合、買い手は潜在的な訴訟リスクを織り込んでバリュエーションを引き下げる。

アクション:開発の進捗に応じて段階的にFTO調査を更新する。隣接分野を含む分野横断的な調査を少なくとも年1回実施し、結果を文書化して蓄積しておく。

(3) 権利帰属とライセンスの明確性

共同研究先(特に大学)との権利帰属が不明確なケースは、デューデリジェンスで深刻なマイナス評価となり得る。独占ライセンスの範囲と期間、サブライセンス権の有無、バックグラウンドIPとフォアグラウンドIPの切り分け、改良発明の取り扱い等を明確に定めておくことが不可欠。近年、大学との交渉では柔軟な条件設定が可能になりつつあるが未だ困難なケースが多い。最低限不可欠な部分については外部の知財専門家のアドバイスを踏まえることも一案である。

リスク:ライセンス契約のサブライセンス権の有無はライセンスアウトを、Change of Control条項はM&Aをトリガーとしてライセンス終了を招く可能性がある。いずれもディールブレーカーとなり得る。特に米国における共同発明者の未記載は特許の有効性を揺るがし得る。

アクション:大学やCDMO等との契約について、発明の帰属、ライセンス条件、改良発明の取り扱いを早期に確認し、不明確な点があれば修正交渉を行う。M&Aの場面で発覚してからでは遅い。

(4) グローバルファミリーの充実度

米国特許だけでは不十分だ。欧州(EP)、日本(JP)、中国(CN)の主要市場をカバーするファミリー出願が求められる。各特許庁のクレーム形式や保護対象の違いを踏まえた各国ごとのクレーム調整も重要である。

リスク:予算制約からPCT出願の各国移行を見送った結果、主要市場で権利が取れていないケースは多い。特に近年は中国での権利確保は、買い手にとって重要な評価ポイントとなっている。

アクション:PCT出願を起点として、少なくとも米国・欧州・日本・中国の4極をカバーする出願計画を策定する。大学等の資金制約の観点を踏まえると、特許出願から国際段階に移行する約30か月の間にベンチャーキャピタル等から知財資金を確保しておくことも一案である。

(5) ポートフォリオの「厚み」とプラットフォーム戦略

少数の基本特許だけでは、競争優位を維持できない。抗体医薬では、機能的クレームや配列などのコア技術の特許に加えて、製造プロセス、製剤、用途、特定患者群に関する周辺特許を積み重ねた「パテントシケット」の構築が有効である。核酸医薬においても基本的な考えは同様であるが、一例として「修飾塩基化合物」自体にコア技術を持つ場合、ただちに自社パイプラインに直結する標的配列への組み込みに落とし込まず、汎用的な修飾モチーフとして別途特許化できれば強固なプラットフォームを構築できる場合がある。リガンドなどのDDSにコア技術を持つ場合は、それだけでプラットフォームとなり得るが、そのDDSに適した修飾モチーフ等を見出すことができれば、より強力なプラットフォーム構築の可能性がある。このように、その他モダリティにおいても自社技術のプラットフォーム化を模索する。

リスク:コア特許1〜2件のみでは、競合他社の設計変更(design-around)に対して脆弱であり、ポートフォリオとしての防御力が低いと評価される。また、コア技術を個別のパイプライン製品にのみ紐づけて出願した場合、プラットフォームとしての汎用性が権利範囲に反映されず、買い手から見た技術の拡張性が過小評価される恐れがある。

アクション:コア技術の特許に加え、製造プロセス、製剤、コンパニオン診断、用途拡大についても段階的にファミリー出願を行い、パテントシケットとしての厚みを持たせる。開発段階の新たな発見に応じた追加出願が鍵であり、研究・薬事部門との日常的な連携体制の構築が不可欠である。上述の核酸医薬の例のように、修飾モチーフやDDS技術を汎用的なプラットフォームとして権利化できないか検討し、個別製品に限定しない上位概念での出願を意識する。加えて、AI創薬の発明者認定問題も視野に入れ、人間の研究者による「有意な貢献」を客観的に立証できるよう、発明プロセスの記録(実験デザインの意思決定、AIへの入力設計、結果の解釈の根拠)を体系的に管理しておくことを推奨する。

5. おわりに

パテントクリフは大手製薬にとっては危機だが、準備のできたバイオスタートアップにとっては最大の機会である。本稿で整理した5つの条件 ―― クレーム設計、FTOの確保、権利帰属/ライセンス条件の明確化、グローバルファミリーの構築、そしてポートフォリオの厚みとプラットフォーム戦略 ―― に早期から取り組むことが、研究の成果を最大のリターンに変換するための投資となる。

弊所は、バイオ分野の知財戦略の立案・策定を専門としております。ぜひご相談ください。

参考情報

本コラムは以下の公開情報を参考に執筆しています。

  • CNBC, “Big Pharma race to snap up biotech assets as $170 billion patent cliff looms” (January 2026)
  • GlobeNewswire / Penn Mutual Asset Management, “Drug Patent Cliff is a Catalyst for Biotech” (March 2026)
  • Labiotech.eu, “The next pharma patent cliff: how 2026-2032 will reshape revenue”
  • BioXconomy / Fierce Pharma, “Top 10 biotech M&A deals of 2025”
  • Lexology, “Top 10 Biopharma M&A Deals of 2025 and Pharma Patent Strategies Backing them”
  • PwC, “Pharmaceutical and life sciences: US Deals 2026 outlook”
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